御堂筋です。

「雨の御堂筋」ってヒット曲は,僕くらいしか知らないかなぁ・・・
それに,最近は大阪国際女子マラソンで,御堂筋が大事な場面でよく出てきますし・・・
最初には,西本願寺津村別院に訪れました。

大きなぼ坊舎です。HPによりますと,以下のような沿革とのことです。
本願寺第8代宗主蓮如上人の手により、大坂(明治から大阪)に、親鸞聖人から伝えられた「お念仏」のみ教えを弘めるため、現在の大阪城のあたりに坊舎(後の石山本願寺)が建てられました。1497年のことです。

その坊舎を中心にしてまわりに寺内町が形成され、大坂の町は大いに発展していったそうです。しかし、織田信長公との長い争いにより、本願寺は生み育てた大坂を離れなければならなくなり、そこで、大坂の門徒はこの地での「お念仏」の灯りをまもるため、天満に近い「楼の岸」に新しい坊舎を建立しました。

その後、「津村郷」と呼ばれていた現在の地に移り(津村別院の名称の由来)、津村御坊は「北御堂」と称されるようになり、南御堂(真宗大谷派難波別院。津村別院から南へ約500メートル)とならび大坂のひとびとに親しまれてきました。
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続いて・・・・・難波別院南御堂です。HPに拠りますと・・・・・・・・

難波別院の前身、大谷本願寺が現在の地に移転、建立されたのは慶長3(1598)年のことです。慶長7(1602)年、京都烏丸七条に東本願寺として移転されてからは、大坂大谷本願寺は難波別院(南御堂)となり、以来、西本願寺の津村別院(北御堂)と共に大坂の商人に親しまれてきました。しかし、その御堂も昭和20年の大阪大空襲で焼失し、今ではわずかに残る写真でしか当時をうかがい知ることはできません。
御堂会館は、別院の戦後復興事業として、本堂と共に山門を兼ねた建物として、昭和34年5月に着工、昭和36年5月に竣工しました。さらに昭和39年には本堂地下研修ホールが完成し、昭和44年には南館が増築されました。その後、昭和60年に慶讃法要の記念事業として第1次大改修をおこないますとともに、御堂の修復、仏具の修理、同朋会館を建設し、外観上は、ほぼ現在の御堂会館の形になりました。第2次大改修は平成7年〜8年度に「蓮如上人500回忌」の記念事業として実施しました。このときに地下展示室を作り、教化センター会館を建設し、現在に至っております。-------とのことです。
それに加えて,こちらは,「芭蕉終焉の地」なのです。・・・写真にあるようなパンフレットも本堂で,無料で頂戴できました。そして,有名な「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」の句碑もありますし,ちなんだ,句碑もあります。

そして,お庭もそれほど大きくはないのですが,きれいにされてました。
全体としては,ホールなのですが・・お庭の様子が合掌させてくれる様子でした。